戦後、故郷で第二の戦い

二世退役軍人は他の人種グループと共にハワイをより公平な社会にするために尽力しました

ハワイ議会代表団、ジョン・バーンズ州知事、そしてリンドン・ジョンソン大統領。ホノルル、ハワイにて。(1960年代)(写真:リンドン・B・ジョンソン大統領図書館)

戦後、帰還した二世退役軍人の多くは農園の仕事に戻らないと決意し、GI法を利用して大学を卒業します。彼らの多くは実業家、医師、弁護士、教師、政治家になりました。

PostWar-CPB

写真:セントラル・パシフィック・バンク

Many Nisei were elected to the Hawaii Territorial Legislature after the War and worked for statehood for Hawaii (ca. late 1950s).

多くの日系二世がハワイ準州議会に選出されました。(写真:ハワイ州公文書館)

帰還した日系二世兵士はハワイや米国の歴史の節目で重要な役割を果たしました。その中には次のようなものがあります:

  • 1952年 – 日系一世や他のアジア系移民にアメリカ市民権を認める法律の成立。
  • 1954年 – ハワイ州議会で民主党が台頭。ハワイ準州議会選挙で民主党が白人主導の共和党に大勝しました。日系二世は労働条件改善に取り組む他の人種グループと協力して民主党の票を獲得しました。
  • 1959年 – ハワイの州化が成立。アメリカ合衆国50番目の州に。
  • 1950年代 – 日系銀行の設立。二世退役軍人は一世の実業家と協力して、セントラル・パシフィック・バンクなどの銀行機関を設立しました。それまでは人種少数派は白人が支配する銀行から融資を受けられないなどの不当な扱いがありましたが、新銀行の設立により白人以外にも公平に機会が与えられました。
  • 1984年 – アメリカ平和研究所の設立。スパーク・マツナガ上院議員(第100歩兵大隊の退役軍人)はアメリカ平和研究所の必要性を米国議会に説き、22年間にわたってロビー活動を行いました。その活動が実り、1984 年に同研究所の設立が実現しました。
  • 1988年 – 日系人収容の大統領謝罪と米国市民自由法制定。スパーク・マツナガ上院議員とダニエル・イノウエ上院議員(第442連隊戦闘団の退役軍人)は、第二次世界大戦時の日系人強制収容の誤ちを正すよう訴え、米国政府から謝罪を取り付けました。1988年に二人はJapanese American Citizens Leagueと共に、米国市民自由法制定を実現しました。これにより日系人強制収容に対しての公式な大統領謝罪がなされ、収容された日系人に賠償金が支払われた。

日系二世退役軍人は犠牲とリスクを冒しても、平等な戦後社会を実現するために奮闘しました。それは自分達が経験した偏見や差別を過去のものとし、未来の世代が自由に生きる環境を作るためでした。戦後の彼らの努力によってハワイの発展が進み、人種少数派も政治、経済、社会生活の最高レベルを目指すことができるようになりました。