日本軍による真珠湾攻撃の後、日系二世はアメリカ人として忠誠を証明
二世兵士はヨーロッパ戦線で勇敢に戦い、太平洋戦争では通訳として貢献
陸軍第100歩兵大隊/第442連隊戦闘団、「失われた大隊」救出後の隊列(1944年)(写真:米国陸軍)
1941年12月7日、日本の海軍航空機が真珠湾を攻撃し、アメリカは第二次世界大戦に参戦することになります。この攻撃は世界を震撼させ、当時アメリカの準州だったハワイでは戒厳令が発令されました。アメリカにとって敵国日本を祖国とするハワイの日系人は疑念の目に晒されました。
1942年2月19日にフランクリン・D・ルーズベルト大統領は大統領令9066号に署名し、アメリカ西海岸に住む約12万人の日系人の強制収容が始まります。これは日系人への人種差別、指導者による政治判断の誤り、そして日本軍によるアメリカ西海岸攻撃という根拠のない恐怖が原因でした。
イタリアの戦地を行くアメリカ陸軍第100歩兵大隊の二世兵士の一団(1944年)(写真:米国陸軍)
イタリアにてアメリカ陸軍第442連隊戦闘団の二世兵士たちがドイツ兵捕虜を移動する様子(1944年)(写真:米国陸軍)
しかし、ハワイでは大規模な日系人収容は行われませんでした。これには人口の4割を占める日系人を収容することが物理的に難しかったこと、収容による労働力の損失が理由としてあげられます。またハワイの指導者や地域の人々が日系人を信頼し、助けたこともハワイで日系人大規模収容の悲劇が回避された大きな理由です。 それでも約2,000人のハワイ日系人はアメリカの脅威とみなされ、強制収容されました。そんな状況でも、多くの日系人はアメリカ人としての忠誠を証明するために志願しました。最終的に、2万人以上の二世が4つのアメリカ陸軍部隊で戦いました。そのうち3つは日系人だけの部隊でした。
- 陸軍第100歩兵大隊:多数の死傷者を出したことから「パープルハート大隊」として知られています。ハワイ出身の二世兵士で結成され、第442連隊戦闘団より前に訓練と実戦に出動しました。1944年6月に第442連隊戦闘団が欧州戦線についた際に同団に編入されました。
- 陸軍第442連隊戦闘団:「ゴー・フォー・ブローク」の叫びで知られる二世部隊で、1943年2月に結成。第100歩兵大隊と共に、その活動期間と規模に比して米軍史上で最も多くの勲章を受けた部隊。初期の4500人の志願兵の約3分の2はハワイ出身の二世でした。
- 陸軍 情報部(MIS):情報部のスペシャリスト、言語の専門家、歩兵で構成され、太平洋戦争で重要な翻訳、通訳、および政府連絡任務を遂行しました。
- 陸軍 第1399工兵大隊:ハワイで編成され、オアフ島で主要な防衛建設プロジェクトを完成させました。
ハワイ出身二世兵士のアラカキ・ジロウ(右)が日本軍の将校に尋問する様子。 (1945年10月)(写真:米国陸軍)
陸軍第1399工兵大隊S-3、工学部門。(写真:米国陸軍通信部隊)
二世の女性達は陸軍看護部隊や女性陸軍隊で活躍しました。
中には情報部の通訳として働く女性もいました。これらの男女の二世兵士は一世の両親から教えられた名誉、義務、忠誠心、忍耐といった日本の価値観を持って、アメリカ軍に従軍しました。
戦後の東京で従事する女性陸軍隊の二世兵士(1946年)(写真:米国陸軍)