第二次大戦前、ハワイ農場で働いた移民一世の苦労
日本や他国の移民は劣悪な労働条件や生活を強いられました
カウアイ島のキラウエア製糖農園で働く日系労働者(1912年頃)(写真:ハワイ歴史協会、H.W.トーマスアルバム)
19世紀後半のハワイは民主主義というより少数独裁制の社会で「ビッグファイブ」と呼ばれる製糖会社が政治的・経済的な権力を握っていました。製糖会社はサトウキビ畑で働く安価な労働力を求めており、同時期に日本からハワイに移民した人々がその需要を担いました。日系移民は故郷への仕送りが出来る程の稼ぎを期待して海を渡りましたが、そこで待っていたのは過酷な労働でした。
日系移民は故郷への仕送りが出来る程の稼ぎを期待して海を渡りましたが、そこで待っていたのは過酷な労働でした。彼らは主に日本の貧しい家庭の農夫で、ハワイでお金を稼ぎ、裕福な男性として日本に戻ることを夢見て新天地にやってきました。
ところが、サトウキビ農園の現実は奴隷のような生活でした。わずかな賃金での長時間労働、何人もが粗末な小屋で寝起きさせられ、はむかうと罰金や暴力を受けました。移民の生活は製糖会社の独裁によって厳しく管理されていたのです。
日本人契約労働者がホノルル港で移動用ボートから降りる様子(1893年)(写真:ハワイ州立公文書館)
農園で働く移民一世の女性達。(年不明)(写真:ハワイ州立公文書館)
初期の日系移民は農園での契約期間を終えると、より良い生活と収入を求めて農園を出ました。彼らは増える日系移民向けに物を売ったり、商売を始めるようになります。一方、農園に残った移民一世は、賃金と待遇の改善を求めて声をあげ、労働ストライキに参加しました。
移民一世は、その子供達であるニ世に日本の文化や価値観を教えました。「恥」(家族に恥をかかせない)、「我慢」(忍耐)、「恩」(生涯続く感謝の念)、「頑張り」(努力と不屈の精神)などがその例です。これらの一世の教えは、アメリカ人である二世の生き方に大きく影響しました。第二次大戦中、二世は米国への忠誠心を証明するために出兵し、戦地で不屈の精神を発揮しました。
ニ世は日本の習慣を教わりながらも、アメリカ人として育ちました。しかし移民の子であるがために、日系二世は下級市民として扱われていました。同時に、彼らは多文化が混在するハワイでハワイ先住民の文化を学び、農園移民の中国、ポルトガル、フィリピン、韓国の仲間と共に育ちました。日本文化もハワイの多民族社会の一部となり、この多文化間の強い協力精神は戦後のハワイの基盤再構築に役立ちました。
カムロ・ミナコ氏の書