陸軍 第100歩兵大隊
真珠湾攻撃後、当時まだアメリカの準州だったハワイが差し迫る恐怖で混乱する中、第100歩兵大隊は編成されました 第100歩兵大隊の兵士のほとんどは、家庭で日本の伝統的な価値観を、学校でアメリカの民主主義思想を学んだ日系アメリカ人二世たちでした。真珠湾攻撃以前からアメリカに忠誠を誓い、結束して軍隊に志願した二世の若者は、ハワイ国防軍の第298歩兵連隊、第299歩兵連隊の半数を占めていました。
1942年5月、アメリカ陸軍省は、第298歩兵連隊と第299歩兵連隊、また、当時オアフ島のスコーフィールド兵営に拠点を置いていた工兵大隊から二世たちを移籍させ、独立した「ハワイ暫定歩兵大隊」を編成するよう命じました。その1カ月後、1432人の二世たちは「第100歩兵大隊(分離)」結成のため、ホノルルからカリフォルニアへと送られました。この第100歩兵大隊はどの師団にも属していませんでした。地元・ハワイの言葉に由来し、第100歩兵大隊の兵士たちは自らの隊に「ワン プカプカ」というニックネームを付けました1。ウィスコンシン州のキャンプ・マッコイや、ミシシッピ州のキャンプ・シェルビーでの1年以上にわたる過酷な戦闘訓練を終えた第100歩兵大隊は、陸軍の中で最も鍛え上げられた隊といわれるほどになりました。そして、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」というモットーを胸に刻み、戦地へ向かっていきました。
イタリア(1943年):移動中の第100歩兵大隊D中隊(アメリカ陸軍通信部隊提供)
イタリア(1943年):前線へ向かう第100歩兵大隊B中隊(アメリカ陸軍通信部隊提供
1943年9月、北アフリカに上陸。その後すぐに第100歩兵大隊はイタリアの南端に移動し、アンチノの戦い、ローマの解放、モンテ・カシノの戦いなど、連合軍の勢力として勇敢に戦いました。モンテ・カシノの戦いは、第100歩兵大隊として参戦した最後の戦いとなりました。1944年2月までに第100歩兵大隊の兵士約800人が死傷。その死傷者の多さから、「パープル・ハート大隊」と呼ばれました2。モンテ・カシノの戦いの後、多くの仲間を失った第100歩兵大隊には、ミシシッピ州のキャンプ・シェルビーで訓練を受けていた第442連隊戦闘団の兵士が加わりました。第442連隊戦闘団がイタリアに上陸後、1944年6月に第100歩兵大隊は第442連隊戦闘団の第1大隊となり、以後終戦まで、勇敢に戦い、死傷した二世兵士に代わり、キャンプ・シェルビーで戦闘訓練を受けた二世兵士が補充されていきました。
より詳細な情報は、100th Infantry Battalion Veterans Education Center のウェブサイトをご覧ください。
イタリア・リボルノ(1944年):ロバート・パターソン・アメリカ陸軍長官がマーク・クラーク中将、ヤン・オク・キム大尉を伴って第100歩兵大隊を閲覧する様子(アメリカ陸軍通信部隊提供)
イタリア(1944年7月):大統領部隊感状受領時に与えられた名誉ある長旗(アメリカ陸軍通信部隊提供)